チェルノブイリの東西ドイツ体験
チェルノブイリの東西ドイツ体験
フクシマに対するドイツ人の反応はチェルノブイリの事故がなくては理解できません。チェルノブイリは私たちにとって放射能の破壊力とのはじめての直接の経験でした。チェルノブイリ事故から25年。 でもその影響は今でもあります。つい最近私はバイエルン州にいきましたが、趣味として狩猟をしている友人が言うには、バイエルンでは今でもキノコ狩りはしてはいけないとのこと。特にトリュフというキノコが放射能を大量に吸収するそうです。また動物を撃った場合は、まずその足を測定装置に挟み、動物の放射能を測定します。そして放射能の濃度が規定値より低かったり、測定されなければ、美味しい夕飯になりますが、放射能の濃度が高い場合は、その動物は処分され、動物を撃った狩猟家には賠償金が支払われるそうです。
25年前。当時、私は東ベルリンに住んでおり、3月30日には一番下の娘がちょうど生まれたところでした。ですから私にとって忘れる事の出来ない年です。お産の後、少し時間が経って田舎に里帰りした時に、あのチェルノブイリの事故が起こりました。
暖かい日の当たる庭の満開の桜の木。そしてそこでスヤスヤ寝ている赤ちゃん。何と言う幸せ。私がどんなによろこんだか、今でもその気持ちを思い出します。ほぼ完ぺきな幸せ。でもその時、世界では大変な事が起こっていたのです。今思えば、それはナイーブだったかもしれません。今日でも「もっと注意深く行動すればよかったのに!」と、後ろめたい気持ちでいます。しかし、どうして私に知ることができたでしょうか。田舎ではニュースもあまり聴きませんでした。
東ドイツのメディアは最初チェルノブイリの事を全く報道しませんでした。したとしても事故を過小評価し、『危険はない』と人を安心させました。しかし、東ベルリンの市民は当時西側のテレビも見ることができ、そちらのテレビでは、外に行かないこと、生の野菜は食べないこと、雨具をしっかり着るようにと警告していました。そのような西ドイツ人の態度は、私たちから見ると、誇張された危険に慌てふためいているように思えたのです。当時東ドイツは、技術的にはまだ発展途上の段階で、幸いなことにに原子炉の数は少なかったのですが、それでも、私たちは注意を喚起され、原子力の危険について強い関心をもちました。
私たちには二つの全く異なっていた情報源がありました。一方の報道は人々を安心させる報道、もう一つは人々にパニックを起こさせる報道。この相異なった情報と人々の行動は、フクシマ後にもみられました。ここにいくつかのエピソードを紹介しましょう。
当時、東ドイツの店先に新鮮な野菜が並ぶことはまれでした。一番品質の高い野菜は西ベルリンに輸出されていたので、私たちの手に入るのは、季節の野菜、 キャベツとカブでした。ところが、あの事故の直後から様子が一変します。西ドイツ人は用心深くなり、新鮮な野菜を買わないようになりました。その結果、東ドイツの店の棚には、新鮮な野菜があふれました。とりたてのレタスなんて、クリスマスみたいでした!放射能には匂いも味のありません。町にあふれた野菜を買い、しっかり洗ってから、お腹がいっぱいになるまで思う存分食べたものです。 私の母は、趣味でいわゆる有機野菜を栽培していました。 今いうところのヘルシー野菜です。私は母に、畑をやめ、自分で栽培した野菜も食べないようにと説得したのですが 、母がいうには、一年間菜園をほっておけば後の作業がたいへんで、元の状態に戻すのに何年もかかるし、栽培のリズムを崩す訳にはいかないと言って、私の助言を聞き入れませんでした。そして作った野菜を食べていました。彼女は今はもう91歳ですが、年の割に結構元気なんですよ。 そんなわけで、当時野菜をめぐってよく家族で喧嘩をしました。チェルノブイリの年には、その後の数ヶ月、家族のうちのだれひとりとして母の野菜をベルリンへ持ってかえりませんでしたが、いつのころからか良く覚えていませんが、また以前のように母の作った有機野菜を食べるようになりました。
東ドイツにとって幸いだったのは、放射能雲とその雨(黒い雨)が 素通りしたことです。雨は東ドイツではなく、バイエルン州、アルプスの手前に降り注ぎました。
事故のあと何年間かは、私たちもやはりキノコ狩りはしませんしたが、いつの間にかそれもまた忘れられていきました。でも歯医者に行ったときだけは事故を思い出しました。その先生は放射能の被害を受けたチェルノブイリの児童を無償で治療していたからです。診療室で会った頭をそりあげた白血病の子供たちの顔を忘れることはできません。
母の住むグーベン町からはナイセ川の橋を渡るとすぐにポーランドです。第二次世界大戦の結果、町の半分はドイツ領土で、もう半分はポーランド領土になりました。 国境の向こう側に住んでいるマリアさんというおばあさんは、そこで新鮮な卵を売っています。私もいつもそこで卵を買っています。 マリアさんはウクライナ生まれですが、戦後ウクライナから追い出されました。(西ポーランドには多くの元ロシア人が住んでいます。この人達は国の統廃合によって、故郷を失い、追い出された人々です。)マリアさんのお嬢さんはチェルノブイリ事故の前後にウクライナの親戚のところへ遊びに行っていて帰ってきてから、白血病・癌に罹りました。母であるマリアさんは卵を売ることで、お嬢さんの治療費を払おうとしています。チェルノブイリはまだ終わっていない。卵を買いに行く度にそう思います 。
フクシマの大参事が起こった時、サシャさんは、私のアパートの部屋を改造・修理しに来ることになっていました。彼はいかにも健康そうなウクライナ出身の大工さんです。生まれ故郷はチェルノブイリからたった70キロのところです。私が東日本大震災の募金活動で疲れて帰宅したら、彼の仕事はちょうど終わっていました。私は日本のニュースを見て、強い衝撃を受けていましたが、サシャさんは不思議な事にとても落ち着いていました。彼の故郷では、だれも癌に罹っておらず、放射能雲はただ通り過ぎただけ、でも140km以上チェルノブイリから離れているキエフでは、放射能雲の雨が降って、多くの人が病気になって死んだと語ってくれました。
フクシマやチェルノブイリへの反応の数は、たぶん人がいる数と同じだけ違うようです。人は皆違うように受け取って、違うように反応するのでしょう。ただし、それは自分が被害者ではない限りの事ですね。誰だって簡単に被災者になりえますからね。
日本の三重災害(津波、地震、原発という事で、ドイツ語で「三重災害」と呼ばれています)はチェルノブイリ原子力発電所事故の25周年に近い時期に起こりました。折しもこちらのメディアはチェルノブイリ原子力発電所事故についての企画を準備していたところでした。特別番組も放映するばかりの状態で、記事もできあがり、文学のイベントも計画していました。そのように皆が「原発事故の危険」というテーマの準備していた瞬間に日本で大地が揺れました。
それも、なぜ”ドイツのメディアが激しい反応をしたか”を説明する一つの側面かもしれません。